百花園の歴史

創業 1882年からのあゆみ

何事も”型なし”では困りもの、といって型通りでは平凡、身についた型をあえて壊す、型破りが特に芸事ではもてはやされるそうです。
菓子づくりも似たところがあって、型(基本)がしっかり出来ていないと新しいものは作れません。
素材や技法の一つひとつを吟味する、これも基本の修練しだいで磨きがかかります。
より良い素材をより良い腕で、あたりまえのことをくりかえし、くりかえし、おいしい菓子作りにはこれしかないと思っています。

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百花園の産声

東京で菓子職人として腕を揮っていた初代太田新太郎は、明治三年の春にお菓子作りの腕を見込まれ東京から新潟に拠点を移し、市内をはじめ新潟周辺で関東風のお菓子作りの講習を行い、その技術を広めたと言われています。
その後、明治十五年に現住所(営所通り)にて和菓子屋を開業させたのが百花園の始まりです。
百花園という屋号は、初代の兄が東京の向島百花園を営んでいた事から名づけられました。商売はあまり上手な方では無かったのですが、明治天皇の地方巡幸の際、新潟と酒田で二度にわたり献上和菓子を製造した事で評判も広がり、お店はとても繁盛しました。

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再出発

戦争の際、お菓子作りの道具は全て国に供出した為、何も無い状態でした。
始めは近所の知り合いに、「お菓子屋を辞めてうち(石鹸屋)を手伝って欲しい」という誘いを受けましたが、三代目はそれを頑なに断りました。
それは、代々続いてきた百花園の歴史を自分の代で終わらすわけにはいかないという強い使命感と、お菓子職人として、これからこの道で生きていくんだという高い志があったからです。ただ、その思いは、結婚してすぐに戦争に行き、離れ離れになってしまった五年もの間、居なくなってしまうのではないかとずっと心配だった妻が苦労に耐え、待っていてくれたからこそ持つことが出来たものでした。夫婦で二人三脚、一からの再スタートをする事になりました。

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新たな挑戦と成功

そして、少しずつ軌道にのって来た頃、お菓子作りのさらなる技術の向上を求め、品評会等に出るようになりました。そこでますます、お菓子作りの楽しさを知った三代目は、より質の高いお菓子作りにのめり込んでいき、そして数々の賞をいただくようになりました。
数年後には常に金賞をとるほどまでに成長し、第十五回全国博覧会が名古屋で行われた際、式菓子部門で名誉大賞と言う最高賞を、四年後の第十六回大会では上生部門で副総裁賞を、その後も高松宮賞等素晴らしい賞を頂く程に。会の方からは「品評会への出品は辞め審査員になるように」と言われるまでになりました。
そうなってくると、三代目の元で修業を積みたいと人が集まり、狭い建物の中に常に六、七人のお弟子さんがいる状況で活気あるお店になりました。

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四代目と洋菓子

「仕事に惚れろ、女房に惚れろ、土地に惚れろ」と言う三代目の好きな言葉があるのですが、まさにこの言葉通りの生き方を三代目は志してきました。
そして、今、その志は四代目中心へと移り確実に継承されてきました。四代目はこれからは洋菓子の知識と技術も取り入れる必要があると考え、洋菓子の修行も積み、真楽(最中)といった和菓子の他に越しに舞う(サブレ)や、すかし梅(ゼリー)など三代目とは一味も二味も違えど、百花園らしい銘菓を生み出し新しい風を吹き込みました。
また、新たに五代目も加わり、堅実に、そして誠実に百花園らしさを保ちつつ、これからも多くのお客さまに愛されるお菓子作りができるよう、より良いお菓子をより良い腕で精進していきます。

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    四代目と洋菓子

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百花園物語

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